
こんにちは。あいです。
私の趣味の一つに読書がありますが、正直な話、読書は面倒くさいです。
私が読むジャンルは基本的にいわゆる純文学系に偏っており、知人からも「よくそんなの読むね」と言われます。
なぜ読書するのか、人から聞かれて回答に窮するのもあまり面白くないため、この記事では私なりに読書する理由をまとめてみます。
※この記事で言うところの「読書」は主に純文学を想定しています。
勉強としての読書
大前提として、私にとっての読書は勉強です。
勉強だけでは抽象的すぎるので、何の勉強かざっくり細分化すると「共感力の向上」と「言語の学習」で説明ができると思うので、この二つに分けて考えを整理していきます。
共感力の向上
何十年、何百年も前から現代でも読まれているような作品は人間味が非常に豊かに描かれています。
感情の揺れ動きが繊細に表現されており、登場人物たちの感情を追体験することができます。
これはいわゆる他人の感情を読む行為です。
日常で他人の感情を読むことなどできるはずもなく、これは「〇〇は××と考えた」などの表現ができる文学ならではの体験です。
登場人物と自分の感じ方が異なっている場合でも、良著では「そういう考え方もあるのか」と読者側の想像力を広げてくれます。
ここまでツラツラと私の考えを書きましたが、漫画でも同じ体験ができるのではないか、という考えもあると思います。
私なりに文学と漫画の違いを言うなれば、視覚的情報量の差だと思います。
言わずもがな、漫画ではイラストがある分、活字のみの文学より視覚的情報が多いです。
共感力の向上という点で考えた場合にこの違いが問題で、漫画だと登場人物たちがありありと描かれすぎていて、読者が想像、共感できる余裕が文学より少なくなっていると思われます。
言い換えると、漫画の場合はそのイラストがある意味答えになってしまっているとも言えます。
同じ「涙を流す」表現でも、大声で泣きわめいているのか、さめざめと静かに泣いているのか、漫画だとイラストの表現に依存してしまいますが、活字のみだとどう泣いているのかは読者の想像にゆだねられている、というようなイメージです。
言葉の学習
ここで言う、言葉の学習には二つの意味があります。
一つ目は言葉通りで、自分の知らなかったような言葉を活字を通して学ぶことができます。
私の場合でぱっと思いつく例を挙げると、「漸く(ヨウヤく)」と「暫く(シバラく)」の読み方は文学を通じて学んだ記憶があります。
こういった意味で、外国語を学ぶ際にも、その国の文学を読むというのは意義のあることだと考えています。
二つ目の意味が重要で、良著では自分で言葉にできなかった感情を言語化してくれます。
自身の話で一つ例を挙げてみます。
私は建築従事者で、一級建築士試験に不満を持っているのですが、夏目漱石の「三四郎」で以下の文章を見つけてひどく腑に落ちました。
「余今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。岑々たる頭をおさえて未来永劫に試験制度を呪詛することを記憶せよ」
「三四郎」 (夏目漱石/著 角川文庫)p.51
この文章を読んで、私は建築の勉強が嫌なのではなく、ただ食うため(資格を取って稼ぎを得るため)に勉強させられているという事実が気に食わなかったのだと気づかされました。(この件については、資格学校に対する不満もありますが、ここでは別問題。)
このように、良著を読んでいるとふとしたシーンで自分の感情を上手く言語化してくれてることが多々あります。
何のために本を読むのかのまとめ
本記事では、「何のために本を読むのか」について整理しました。
ひとまず自分が一番感じていることを文章化しました。
娯楽としての読書はどうなのか、本をあまり読まない人でも読んでいることが多い自己啓発本についてどう感じているか等、気が向いたら追記しておきます。
それでは。